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地域情報
童浦市民館情報
どうほ ほっとコミ

童浦のおいたち

この地域の起源は古く、縄文時代後期には、既に、集落の営みがあったことが「吉胡貝塚史跡」の発掘調査により裏付けられています。
この地域は、古来汐川干潟を擁する田原湾に面し、魚介類が豊富であり、後背部には蔵王山などの山があり気候温暖であったため人類にとって暮らしやすい立地条件であったと思われます。
吉胡貝塚は「シェルマよしご(吉胡貝塚史跡公園」)として整備され、楽しく学習ができる施設になっています。詳しくはこちらから


その後も、この地区の名前は文献など、記録に残されており、いくつもの集落があったことが伝えられていますが、江戸時代には既に「吉胡村」・「浦村」・「片浜村」・「波瀬村」・「白谷村」の名前が記録に残されています。

近代に入り廃藩置県以降、短期間にたびたび町村制度が変更され、その都度、村の分合が行われています。明治19年には「浦村」・「波瀬村」・「片浜村」・「白谷村」の4ヵ村が統合され「浦村」が誕生しましたが、明治22年に施行された市町村制により、「吉胡村」が「田原村」から「浦村」に加わり「童浦村」となり、村役場が「浦」に置かれました。
明治25年には「田原村」が町制により「田原町」に変わり、明治39年に「童浦村」・「相川村」・「大久保村」の3ヵ村が「田原町」と合併したことにより、市町村名として「童浦」の名称は無くなりました。


昭和42年から始まった、臨海工業用地造成工事により童浦を取り巻く海が埋め立てられ、田原臨海工業地帯が誕生しました。これを境に、この地域の激変が始まります。
昭和50年代から、トヨタ自動車工業はじめ多くの企業が次々と進出し、これに併せて地域内に住宅地開発がすすめられ、日本各地からの転入により人口が急増し、新しい行政区が次々に誕生しました。
昭和53年「西浦」、平成3年「姫見台」、平成6年「木綿台」、平成11年「光崎」、平成12年「吉胡台」、平成20年には「片西」が生まれました。

太古の昔から、恵まれた自然の中で営まれてきたこの地域の暮らしは一変しましたが、受け継がれてきた「童浦」の名称は、現在11地区自治会が加入する「童浦校区」として受け継がれ、田原市内最大の校区として発展を続けています。

参考資料
角川:日本地名大辞典
平凡社:日本歴史地名大系
千秋社:愛知県渥美郡史
郷土出版社:東三河の歴史
田原市:合併の軌跡・浦区郷土史
  

「童浦」の名前の由来


地名には、旧来、その土地で生まれ育ち、あるいは、人生の中で何らかの係りを持った人々にとって生涯心に響く懐かしさを感じるものです。
しかし、国内津々浦々に残された、その地域の歴史、文化等に由来する地名は固有名詞として、独特のものであり、正しく読むことが難しいものですね。
私達の地域「童浦(どうほ)」の地名も、長い歴史に育まれた由来を持ちながら、地域外の皆さんには、なかなか正しく読んでいただけません。
このページをお訪ねいただいたこの機会に、記憶にとどめていただければ幸いです。

童浦(どうほ)の地名の由来は、平安期に付近の入江を「童の浦(わらはべのうら)」と呼び
その名は紫式部の歌にも見える。
老津島 島守る神や いさむらむ 波も騒がぬ わらはべの浦
このことから、この地名は「童部の浦(わらはべのうら)」が変形したものと伝えられる。
(参考文献 角川日本地名大辞典)



現在、当校区を構成する11地区の名前の読み方をご紹介します。
・吉胡(よしご)  ・木綿台(もめんだい)  ・吉胡台(よしごだい)  ・浦(うら)
・波瀬(はぜ)  ・西浦(にしうら)  ・姫見台(ひめみだい)  ・片浜(かたはま)
・白谷(しろや)  ・光崎(こうさき)  ・片西(かたにし)
  

童浦校区年表


PDFはこちら%E7%AB%A5%E6%B5%A6%E6%A0%A1%E5%8C%BA%E5%B9%B4%E8%A1%A8%E2%91%A2.pdf (PDF: 666KB)  

竜江地蔵尊を憶う

竜江地蔵尊を憶う


汐川の河口、竜江大洲崎の先端に立っていたお地蔵様は海で働く舟人(かこ)達の守り本尊として、永い間田原船舶組合が施主として、毎年(旧暦)7月24日を地蔵マツリとして供養を続けて来た。
新暦になってからは8月24日を“地蔵マツリ”として今も続けられて居る。
何時の頃に建てられたのか記録が無いので定かでないが大正時代よりも前の頃と思われる。

竜江地区は冬の季節風が強く、特に沖合より大洲崎に向かう狭隘(きょうあい)なる中澪(なかみよ)は波が深く強風時にしばしば遭難する船がありその無縁菩薩を弔う雑木林が大洲崎の中間地点にあった。
竜江地蔵尊もそうした無縁菩薩を弔うと共に舟の安全な航海を願って建てられたとの説もある。

地理的に見ても竜江は田原へ入る海よりの玄関口であり、この要所に等身大の立派なお地蔵様を建てる事は大変な工事であったと思われる。海路他地区との交易を広め地元発展を願う心ある実力者達が舟人(かこ)を励まし、無事を願って建てたとも想像出来る。

終戦後は各地の復興は目覚ましく広大なる砂利層から成る竜江地区は、忽ちその脚光を浴び、建設資材の需要が激増し、五機の採取船が稼働し百隻を超す小型貨物船が出入りする様になり、潮の急流と相まって、お地蔵様の足元も次第に浸食され、昭和30年代に竜江中間地点に移された。
その年の“おマツリ”には仲間で赤土を運び砂利の上に土俵場を作って供養相撲をしたり、投餅、甘酒の接待等、賑やかに行われた。
その後も再び移転されたが、常に田原・豊橋地区に入出港する船の見える位置の砂浜に建てられていた。

その後、当地区が重要港湾の指定を受け大型の港湾工事が進められ、現在の素晴らしい臨海工業地帯が造成される迄に、お地蔵さんは二度の移転が行われたが、その都度、浦区、並びに田原町より企業局へのお許しを願い、トヨタ自工の寛大なる御配慮を得て、トヨタ自工西北端に竜江大洲崎の先端に立って居た時と同じ姿で、海に向かって田原・豊橋港へ入出港する船舶の番人として、無事な航海と繁栄を祈っているであろう。

お地蔵さんには、年齢もなく、男女の別もまく、御堂の中へまつるものでもなく、路傍に立って、あまねく老若男女に暖かいお慈悲を惜しまぬ菩薩と伝えられている。
 
竜江地蔵尊の供養が続けられる事を願いつつ・・・

平成13年8月24日 地蔵盆の日に

<文・松浦庄市>
  

地域に伝わる民話『竜江の松』

渥美半島の七不思議より ~民話『竜江の松』


むかしむかしのことです。笠山のふもとから、豊橋の方の海へ向かって、細長い砂浜がつき出ていました。
人々はここを大州崎(おおすさき)と呼んでいました。
そこには背たけほどの松の木が、いっぱい生えており、小鳥やうさぎなどの動物が住んでいました。
まわりの海では、タイやカレイ、ハゼやうなぎ、アサリやカキなどがいっぱいとれました。
大州崎の先っぽのあたりを、竜江と言いました。汐川と梅田川の流れがぶつかり合う所で、潮の満ち干と重なると、まるで竜が大暴れしたような、激しい流れになることから、竜江という名が付いたのだそうです。

竜江では、たびたび船が流れに巻き込まれて沈んだので、人や荷物を運ぶ船の船頭や漁師の仲間から、このあたりには、水の神様が住んでいると言われるようになり、ここを通る時、
「神様、どうか竜江を無事に通して下さい。」
と、祈りながら船を走らせたそうです。

竜江を無事に通り過ぎると、広い三河湾へ出ます。しかし、ここでも危険なことがいっぱいです。深いはずの沖の方が浅かったり、急に強い風が吹きつけてきたりするので、船頭は油断できません。
浅い沖をさけて、船は大洲崎の浜のすぐ近くのミオを通ります。ミオは、狭くて深い上に、流れも速いので、舵取りを誤ると、大きな事故につながります。
大洲崎のまん中あたりの海辺に、大きな松の木が、一本だけありました。不思議なことに、このあたりの海で行方不明になった人は、必ずこの松の木下の浜へ流れ着きました。だから、村の人は、死人松と呼んでいました。

竜江をはじめ、大洲崎のまわりの海では、たびたび事故が起き、なくなった人も多かったので、船頭や漁師と村の人達が相談して、なくなった人の供養と船の安全を願って、竜江のはなへお地蔵さんを建てました。そして、毎年、うら盆の七月二十四日には、お供え物をし、お参りをした後、餅投げ、あま酒、子供に若い衆による相撲大会などで、盛大に地蔵まつりをしました。

それからは、事故もなくなり、安全な日々が続き、みんなはほっとしていました。
ところが、しばらくして不思議なことが起こったのです。
夏が近づく頃になると、大洲崎の松林には、ショウロがはえます。お吸い物に入れると、とってもおいしいので、村の子供たちは、ショウロ採りに出かけます。

ある日、栄ちゃんと千枝ちゃんは、ショウロをさがしに、松林へ行きました。しばらく行くと、根元から切り取られた松の切り株がありました。
ここの松は枝ぶりがいいので、生け花や盆栽に使うために、だれかが切ったのだろうと、栄ちゃんはおもいながら、もっと奥の方へ入っていきました。
「あれっ!切り株から枝や芽が出ているよ。」
栄ちゃんは、びっくりして叫びました。松の木は、根元から切れば、枯れてしまうと言われているのに、不思議だなあと千枝ちゃんも思いました。

よく見ると、近くの切り株からも新しい芽が出ているではありませんか。
家に帰ると栄ちゃんは、物知りの忠左衛門じいちゃんに、早速このことを話しました。

「ほーっ、おどけたなあ。」
おじいちゃんは、腕を組んで考えこんでしまいました。
「うーん、不思議なことだ。竜江では、むかし海の事故で、がとうな人が死んだ。その人たちのたましいが、松に乗り移ったのだろう。切り取られた悲しさに、また新しい芽を出したにちがいあるまいのう。

おじいちゃんのお話は、たちまち村中に広がりました。それからは、竜江の松を切る人は、いなくなりました。

今では、竜江も大洲崎も埋め立てられ、大きな自動車工場となって、むかしの風景は、何一つ見当たりません。
竜江のはなに建てられていたお地蔵さんだけは、工場の西のはずれの海岸の近くに移されています。
やさしいお顔で昼も夜も海を見つめ、心をこめて手を合わせ、沖を通る船の安全を、お祈りしてくれています。

<文・絵 松浦邦治>

  

地域に伝わる民話『でえたらぼっち』

民話の舞台を訪ねて~笠山と姫島を軽々と担ぐ「でえたらぼっち」



笠山と姫島を長い担い棒で軽々、楽々と運んだ古代の大男「でえらぼっち」の伝説をきいたことがあるかなぁ?
山を移動したり大きな手や足の跡を残して全国的には「だいだらぼっち」の名前で伝わる童浦校区の巨人です。

三河湾を見下ろして菅笠(すげがさ)のように立つ笠山(高さ78m)と、その北西3㎞の海上に浮かぶ姫島(高さ62m)。
はるかな昔、でえらぼっちは西の方から二つの山をもっこに乗せて担い棒でかつぎ、太平洋岸の越戸町では渥美半島で一番高い大山(高さ328m)に腰かけて遠州灘で足を洗ったとも伝わります。大男の足跡は今も渥美半島のあちこちに池や沼として残っていますよ。

童浦地区では四十年ほど前から海の埋め立てが始まり、「緑が浜」や「白浜」の地名の広大な埋め立て地が誕生。トヨタ自動車の工場をはじめ多くの企業が進出して、人口も倍の7,000人に膨らみました。他方で、アサリやノリの養殖の漁業はすべてなくなりましたが、伝統の農業は電照ギクやブロッコリー、キャベツなど幅広くとても活発ですよね。
新しい住宅地も増えて、童浦校区の外観は大きく変わりましたが、二つの自然は丸くて濃い緑の“聖域”として手つかずで残りました。
笠山は公園整備が進み、ふもとの笠山公園広場や散策道、山頂の雷電社への石段参拝路を伝いながら豊かな植物群の観察が楽しめ、頂上からは三百六十度の景観が思いのままです。
晴天の日に訪ねてみましょうか。

文: 岡田 健三


この記事は、中日新聞が平成10年11月29日付けで掲載した「古里点描・民話の舞台を訪ねて」をモチーフにしました。